長い間、私は様々なことを考えてきました。
自分とは何か。
心とは何か。
自然とは何か。
考えれば考えるほど、人はあらゆるものに名前を与え、理解しようとしていることに気づきます。
それは決して悪いことではありません。
言葉は世界を理解するための大切な道具です。
しかし、同時に言葉は、物事を分類し、区切り、概念として捉える働きも持っています。
私たちは知らず知らずのうちに、あらゆるものを言葉によって整理しています。
けれども、自分自身を深く見つめていく中で、ある一つのことに気づきました。
それは、多くの悩みや葛藤は、自分を理解しようとすること以上に、自分を裁こうとすることから生まれているのではないかということです。
こうあるべき。
こうでなければならない。
本当にそれでいいのだろうか。
そんな問いを手放していった先に残ったものがあります。
それが「自然」という言葉でした。
無理をしないこと。
自分をねじ曲げないこと。
自分を裁かないこと。
ただ、自分の中から生まれてくるものを、そのまま認めること。
その在り方を表す言葉として、私は自然という言葉に辿り着きました。
しかし、さらに考え続けていると、今度は別の問いが現れます。
自然とは一体何なのでしょうか。
川は自らを自然とは呼びません。
鳥も、木も、風も、自分を自然だとは思っていません。
自然という言葉そのものが、人間によって与えられた名前に過ぎないからです。
そう考えたとき、私は気づきました。
自然という言葉もまた、一つのラベルなのだと。
そして、そのラベルの先には、言葉では表現できない領域があるのではないかと。
何かを言葉にした瞬間、それは概念になります。
概念になった瞬間、それは名前になります。
しかし、その先にあるものは、名前すら必要としないものなのかもしれません。
それを私は何と呼べばいいのか分かりません。
いや、呼ぶこと自体ができないのかもしれません。
なぜなら、呼んだ瞬間に、それはもう別のものになってしまうからです。
だから今の私に言えることは一つだけです。
自然という言葉は、私が辿り着いた答えの一つです。
けれど、その自然のさらに奥には、言葉では届かない世界がある。
そして、その世界は説明するものではなく、ただ静かに触れるものなのかもしれません。